昭和44年3月12日 夜の御理解
                            中村良一


( 途中から )やすけれども、金光教は続かんよ、今のごたるならという訳なんです。ね。なしかというと、その焦点が違うち言う。神様の願いを受けていこうとせずにですね、自分達の願いを中心にして行きよる。神様の願いを中心じゃないんです。それが、今の教団で言うておる、例えば、色々な、あの、言葉の中に、一つのスローガンといったようなものの中にでもです。ちょっと、見当違ったスローガンがあるという事です。ね。あの、お取次ぎの要目なんかにでも、それをちょっと感じますよね。脇殿の、額に入っておるでしょう。あれなんかでも、よくよく見よると、ちょっと、反れておる感じるところがある。ね。例えて、今日も私が申しておりますように、ね。問題を問題として行けとこう言う。問題を問題にするとですね。段々、腹の立ってくる事になってきたりですね。困ったことになっていくんですよ。問題を問題としていくと。ね。けども、その、問題をね、問題とせずに、これは、合楽の行き方。問題を通してね、問題のその、追及点というのが違う。あれが、こうしたから、こうなって、こうなったと言うような風に問題を追及していくのじゃなくてね、そういう問題を、自分が、例えば、難儀であるならば、難儀を、自分が感じなければならないなら、これは問題じゃないんだと。問題じゃないんだと。それは、神様の働きであり、神様の願いであり、または、神愛なのだと。ですから、その神愛を神愛として受けて、自分の心に頂かにゃつまらん、ね。そして、自分の心のなかに、こういう問題が起こる、こういう難儀な事が起こってくる。いわゆる、その焦点というか、その問題の焦点は、自分の心のなかにあわせていかなければならないものである事をですね。間違えたら、本当のおかげにならないというような事が、今日の御理解ですよね。
そこでです、神様が、如何に、例えば、ほんなら、昨日のその、四時の御祈念の、その事からでも分からせて頂くように、もう、とにかく、もう本当に、火急な問題なら火急な問題であるほどにです。神様が、もうしばらく待っとけと言うような神様じゃなくて、走り込んで来たら、その場で、受けて下さろうとする、神様の、その心を知って、ね。おかげを受けていく、その、ほんなら、おかげを受けていく、( 途中少し切れている )これはもう、普通でいうたら当たり前。けども、当たり前では皆さん、当たり前のおかげよ。ね。
ま、例えば、今日、ほんなら、高芝さんと、秋山さんの例を取るなら、今日は、ご主人の自動車で来ておる、ね。また、自分の姉さんも、一緒にお導きして参ってきておる。そういう事情があるのですから、そらもう、一緒に帰るのが当たり前。朝の御祈念を頂いて、でないと、またバスで帰らんならん。主人の車で来ておるのですから。ね。ですから、今日は、特別区の奉修委員の御祈念はご無礼しますと言うて帰る。これが当たり前なんです。そうでしょうが。そういう事情があるんだもん。けれども、当たり前なら、ほんなら、信心しよった分じゃ、当たり前のおかげしか受けられんという事。
ほんなら、秋山さんも同じことでしょうが。やっぱり、道程においても、そんなに変わりはない。ね。ほんなら、あちらから、車で来ておるけれども、車は一遍、帰しといて、皆さん、今、帰ってしもうた。中村さんでも、そうです、ね。奉修委員だから、ほんなら、私は今日は、秋山さんと一緒にち言うなら、恵美子さんが、あげな遠方から、今日は、参って来とるとじゃけん、婆ちゃんと、ここで会えるとじゃもん。あら、お婆ちゃんな、もう今、帰った。残った秋山さんだけは居る。何とも気が付かん、こんなして、まぁ、あちらに行けることになるんだけれどもですよ、ね。幾ら日曜でも、ほんなら、ここで、婆ちゃんとあやもう、(朝の際まで行くことは要らんもんね?)だから、しかし、それはもう、当たり前、乗ってきた車で帰るのだから、それに乗って行こうと言うのは、当たり前だけれど、ここではね、当たり前の信心は、私は、説きよらんもんね。ね。他所の教会のごとは、並じゃ、私は、言いよらんもん。だから、他所の教会並じゃったら、他所の教会なみ、おかげは。まぁ、失礼な言い方なんだけれども、ね。私は、そうではない。神様の下さろうとしておるおかげ。ね。そういうおかげを、まともに受けぬかせて頂こうと言うのが、私が、朝晩、一生懸命、説いておるのがそれなんです。時間じゃない、地形じゃない、ね。そんなら、秋山さんは、その、一緒に乗って来とる車は帰して、その時の奉修委員の御祈念に残るとこう言う。そこの違いなんだ、おかげを受ける、本当のおかげ受ける受けないは。ね。普通のおかげなら、それで結構、それが当たり前。だから、それを過ぎると、例えばこの、信心の薄い者やら、信心のない者は、本当に、あれどんが、ぼうけとるもんじゃけんと言う訳なんです。
例えば、秋山さんなんかは、そういう風に言われるわけです、普通からは、ね。けども、神様の目からご覧になれば、それが本当なんです。ね。だから、私達は、変わったおかげを頂くなら、ちーった、変わった信心せにゃ。人が人偏なら、私は行人偏と言う生き方でいきゃ、一つ多くせにゃいかん。いつも行という事を感じとかにゃいかん。人並みの信心どんしよってから、そして、おかげだけは、特別のおかげ頂こうと言うたっちゃ、そりゃ、無理な話なんです。それは、如何に神様が、切実にね、おかげを受けてくれよと、手を差し伸べてござるようにあっても、それを、掴む事は出来ん。ね。差し伸べてござる手にすがることが出来ん。ね。そこでね、私はその、今日、思うんです。
えー、お互い、弱点を持たない者はないですね。ね。あの、今、テレビでやってるじゃない。55号のなかに弱点がある。あれは、55号だけじゃない。お互いが持っておる、弱点を。ね。その弱点を突かれると破れる。ね。または、弱点を突かれる事によって、おかげを受けていく人。それを、さっとおかげにしていく人。今日の私が、言おうとするのはね。弱点を突かれりゃ腹の立つ、例えて言うなら、ね。それは、当たり前なんだ、普通からいや。弱点を突かれるのだから。けれども、弱点を突かれた時に、はぁ、それどこじゃないと頂ける人がおかげを頂ていく人。ね。誰でも言いますよ。先生もう、言うて下さいち。もう本当、私にも、先生、どげんとこでん良かけん言うて下さいち。そるきんちから、皆さんの辺りが、弱点を神様から頂いて、いっちょいっちょ突いたら、もう絶対、合楽には、もう、あげなこと、先生が言いなさったけんで、もう参らんち言い出しますよ。こらもう絶対。もう、そげな例があるとですけん、実際。先生が、私に、恥かかせなさったと言う。頼みよるけん言う訳、ね。だから、こらもう、ほんなもう、弱点の横んにきまでぐらいしか、やっぱ言われん。だからもう、本当言うたら、本当言うたら、自分が、一番分かってるんですけれども、それを、あえて尋ねようとするばかり、ね。ところがね、何かの機会にです。その人から、それこそ、神様なんですけども、人を通してですね、人を通して、自分の弱点を、それこそ、ぶすりと、やられる様な事がある時にですね。さすがに神様だなぁと、ね。それどこじゃないと、こう頂けれる信心。ね。ようこそ教えていただいたとして、頂けれる信心。ね。私は、お互いの、私はその、本当に弱点を突かれた時にですね。はぁ、それどころじゃないと、自分でその、分からせて頂けれるところまでぐらい、信心を進めたいと思うですね。
ですからね、神様が、例えばほんなら、言うて下さいと言う時には、もう、覚悟していたけれども、やっぱ、なんだけれどね。神様が突きなさる時には、もう、思いもかけないときにですからね。人を通して、事柄を通してですね。弱点を突いてくださるんです、ね。そういう時に、はぁ、ここが自分の弱点。いうならば、おかげを受けられない元、癌と言うのはここにあると言うのですから。これを大事にしなければいけないでしょうが。ね。
今も私、野口つぁんのお届けをさせて頂いてから思うんです。はぁ、この人の弱点はここばいと、私が思うたんです、ね。けれども、野口つぁんは、有難いことには、私がね、例えていうなら、日頃は、信心は、どげな風に頂きよるのと。それこそ、自分の心、そん時そん時に、ころころと、有難いほうへ有難いほうへと変えていくことじゃなかのと。こうと決めなさんなと言うたら、もう、はっと、その事がこう、溜飲が下るように分かるらしいんです。ね。日ごろの信心だと、やっぱ、思います。ね。ですから、そこんところをですね。もっとひどい、ほんなら、弱点をですよ、例えば、神様が、人を通してでも、突いてきなさる時にです。それを、破れることなく、そこを本当に受けていけれるね、そして、受けて立たなきゃ駄目。ね。受けただけじゃつまらん。そうどんじゃなか、もう自分なもう、ここが一番弱点と思うただけじゃいかんのです。だから、そこんところを、本当に改めて、ここんところを、強いものにして行こうとするね。私は、生き方こそね。その、今日私が言う、いわゆる、変わったおかげを頂きたいなら、こんくらいな信心は、させて貰わにゃいけん。そんな修行させて貰わにゃいけんとこういう訳です。ね。
例えば、修行の生き方の上においては、ほんなら、今、高芝さんと、秋山さんの例を申しました。高芝さんの生き方は、もうそりゃもう、当たり前。理の有全は理の通りなんです。ね。朝の忙しい時でしょう。幾ら日曜であっても、やはり、朝は、女は、やっぱり、ばたばた、何かしなきゃならん。しかも、お父さんが車で来とりなさるから、今日は、ほんならご無礼してから、それで一緒に帰ると言うのですから。それは、私も、そげなこつがあるもんのと言われん。それが、ほんなこっじゃから。ね。けれども、おかげを頂く人は、そこの所を、はいはいち言うて、手を上げていくような生き方なんです。ね。そこんところを、いうなら、大事にせろと言われるのは、そこのとこなんです。ね。そこんところが、人が人偏で行くのが当たり前だけれども、人間じゃけ、人偏で行くのが当たり前ばってん、信心させて頂く者を、人偏じゃいかん、もういっちょ、そこに押していかにゃいけん。いわゆる、行人偏にしていかにゃいけんというのである。ね。その行に力が頂ける。その行に徳が受けられる。
私は、昨日、あの、テレビを見せて頂きよる時に、あの何ですかね、あれは宮崎の民謡でしょうか。狩り干し歌かなんかち言うのがあるね。あれをね、歌じゃなくて、尺八で、そのまぁ、吹いておるところを聞かせてもらったんです。もう、それこそもう、余韻上々としてね、その、吹き鳴らされていくね。はぁ、もう、あのくらいな竹一本から、あげな音色が出るもんだと思うんです。ね。私共は、考えてみると、浅ましい私達である。浅ましい自分である事が分かる。そういう浅ましい私が、浅ましい私と悟ってね。そこからその、それを、例えば、磨いていくと言うかね。それを段々、育っていくと、この自分の様な、こう言う浅ましい人間が、こう言う有難いことが思えれる。こういう素晴らしい音色が出るような私にもなれるのが、人間の心なんだ。尺八のようなもんです、ね。私は、それを聞かせていただきながら思うたんですな。本当にお互いが、信心して実意になれと、ね。実否心を持てと。実意な言葉遣いをね、実意な言葉、実意な心、ね。実意な態度。これは本当に大事ですよ。もう態度、思うこと、実意な思い方。実意な態度は大事ですけども、この実意な言葉という事が、また大事です。それはその、尺八の音色を聞いただけで、分かるでしょうが。例えばあの、その尺八の音色が、もうそれこそ、上々として、こう流れてくるのを聞きよると、こっちまで、もの悲しゅうなって来るんですけねぇ。ね。お葬式なんかの時に、あの演奏を、レコードでやると、尺八ですると、もう泣かにゃおられんごとなってくる。ね。いわゆる、涙を誘うごたる感じがするでしょうが。そういう意味合いで、私はこの、お話といったようなものがね。はぁ本当にその、やっぱり、有難いお話が出来よらないかんなと思うです。あの人の話し聞きよると腹ん立つ。もうあの人は、口うを開きゃもう、じがじがするごたるこつばかり言う。これが、如何に行けないことかという事が分かります。ね。これは、音玉の咲きあう訓ち言うて、日本は、昔からね、この、音だまと言うのを、非常に大事にします。音にも魂があると言うのです。(手を叩いて)っと、拍手のこういう音色を聞いとって、いやな思いをするものは、誰もおりはしません。ね。けども、何かその、バケツかなんかを、がんがんやって、叩くごたる音は、ぱーっとこう、耳を塞ぐごたるでしょうが。ね。お互いが、日常生活の中にです。言うなら、それこそ、金と金とをがちがち言わせるごたる音を立てよる様な事はないだろうか。言うならば、ヒステリックなかね、もうそれこそ、金切り声張り上げて、その、言うたりしておる様な事はなかろうか。もう、これが、如何に周囲に、どんな災いを作ったり、難儀になっていく元を作るか分からない。それこそ、耳を塞ぎたい様な事を言いよりはせんじゃろうか。ね。それこそ、その尺八の音色じゃないけれども、自分の心から、どうしてこういう有難い心がわいてくるじゃろうかという様な心から、生れてくる言葉。これは、人をして、はぁなるほど、なるほど有難い。もう、あーたの話し聞きよるだけで、心が明るうなると言ったようなね。お話しが出来るような、私は、内容を頂きたい。そういう事もね、私は、特別に一つ、心を遣わなきゃいけない。例えばその、尺八の音色一つから、私は感じるのですよ。ね。この音色からは、本当にあの、心が清まっていくような音色。この音は、もう、耳を塞ぎたいような音色。ね。ほんなら、私たちが表現しておる、その、例えば、言葉なら言葉の調子とか、ね。言葉というものが、どのように子供に響いていきよるか。どのように、自分の周囲の人に響いていきよるか。はぁ、あの人は元気もん。あの人は( 途中切れ )